イケてるBARの激戦区、三宿の「BUZZOFF」にはなぜ0からのものづくりをしている人達が集まるのか

イケてるBARの激戦区、三宿の「BUZZOFF」にはなぜ0からのものづくりをしている人達が集まるのか

2015年6月3日
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 “いわゆる「○○バー」、という表現では括られない特色”

「BAR」には様々なタイプがある。

いわゆるショットバーと呼ばれるものが主流だが、ビアバー、焼酎バー、メイドバー、ガールズバー、ボーイズバー、シングルズバーなどもそれに含まれる。他にも、ゲーム的な要素を取り入れた、スクリーンでゴルフが楽しめるゴルフバーや、プールバー、ダーツバーであったり、TVでスポーツ観戦することを目的としたスポーツバーというものもある。

「趣味・ハマっているもの」に焦点をおいたガンダムバー、鉄道バー、ラジコンバーといった様なものもでてきており、かなり多種多様な楽しみ方ができる「お酒の飲める施設」化が今もなお続いている。BARの前に「○○」と説明をいれることで、何を楽しめるBARなのか、それを消費者に簡単に理解してもらえる様にしているというわけだ。

今回の主役となる「BUZZOFF」というBARは、「○○バー」と簡単に括られるものではないが、三宿という飲食店の価格競争が激しい地区で12年続く、れっきとした「特色のある」BARだ。

このBARのどこにどんな特色があるのか、本記事内でBUZZOFFオーナー中島氏へのインタビューを挟みながらお伝えしていくが、特に、今まさに「0→1」、つまりものを0から何か生み出そうとしている方々、そして飲食店経営をしている、もしくはこれからしようとしている方々には是非一読していただきたい内容となっている。もちろん、ただ飲むことが好きな人にも、こんなBARがあるんだなあと少しでも興味を持っていただけたら幸いだ。

“激戦区三宿で12年以上経営できている理由”

BUZZOFFは2003年8月に三宿で産まれた。

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中島さんの背中を支える様に、お酒のビル群がところ狭しと立ち並んでいる

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デザイン本、経済本、映画本、様々な書物が日変わりで配置されている

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店内に置かれている厳選された家具は、まるで自宅にいるかの様なあたたかみがある

−中島さんがお店を出すにあたって初めに掲げたコンセプトを教えてください。

中島氏(以下、敬称略) 当時、「0からものを作り上げている人たちを応援するBARを作りたい」というコンセプトを軸に、僕を含めた3人でお店を出すと決めました。しかし、そこまでまとまったお金もなかったので、最初に話し合ってたことは初期投資をいかに抑えられるかというトピックばかりでしたね。当時はかなり四苦八苦していました。

−なぜ、「0からものを作り上げている人たちを応援するBARを作りたい」というコンセプトにしたのでしょうか?

中島 当時、僕達はニューヨークのインディーズムービーが大好きで、1950年前後にでてきたbeatnik、つまりはビート・ジェネレーションという、かのビートルズも影響を受けていたヒッピーカルチャーにのめり込んでいました。このカルチャーも最初は「人生に疲れてしまった人達」とか、「底辺の人生送ってる人々」というマイナスイメージが先行していましたが、途中から「on the beat=ノリノリでいこうぜ!」といったプラスのイメージに変わってきたのです。一番盛り上がってた時にはジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグそしてウィリアム・バロウズといった「ビート・ジェネレーション」の作家たちがでてきて、ヒッピーから絶大な支持を受けていました。それから、世界中で広く知られるようになったという経緯があり、動乱の時代の中で生まれたカルチャーがこのビート・ジェネレーションだったのです。そのカルチャーを知れば知るほどに、そして深く触れていくほどに、何かを発信することであったり、何かものを作ることであったり、何もなかった更地から1を生み出していくパワーを持つ人たちってすごいなあという感情が強くなっていきました。当時僕の周りにも、そういう0から1を生み出すために行動をしている起業家やデザイナー、パフォーマー、クリエイティブなことをしている人たちがいたので、その人たちの憩いになる様な場を作って、もしそこから何かが生まれたら面白いなと考えるようになりました。それが、このコンセプトの発生源です。

−当時中島さんは狭山に住んでいたそうですが、地元にそういったスペースを作らず、三宿を選んだ理由は何だったのでしょうか?

中島 アート・クリエイティブに対するアクションを狭山でおこそうとしても、道交法が変わったことで地元の店の売り上げが落ちたりしていた現状があったので、集客とか売上のベースを作ることが環境的に難しいと判断しました。その頃はみんな狭山ではなく、都心に刺激を求めて車ででかけてましたし。それで、じゃあ僕達はどこにお店を構えようかな?と3人で真剣に考えた結果、まずやったことは三宿・代官山・青山・中目黒にあるBARやカフェ、その地区にある有名ショップに足を運んでかたっぱしから聞き込みする、ということでした。勿論、ほとんど飛び込みで聞き込みしたので、怪しまれることもありましたが(笑。今でこそ中目黒は都市開発も進んできましたし物件が結構ではじめていますが、当時は新規の店舗が入り込める程のスペースが全くありませんでした。青山・代官山も、結構所得の高い層を相手にしてるからか僕らの考える様なコストに見合わなかったんですよね。でも、その4つの中でも、三宿は物件がでてきていましたし、土地柄としてのブランド力があって、出版・芸能・音楽関係・広告代理店のとがった人がその土地柄多く集まっていたということもあって、店の趣向とペルソナ設定はかなりあっていたのです。それが三宿を選んだ大きな理由となりました。聞き込みの結果、僕達の入り込めるスペースも他のところより広く感じることができたので、今では考えられませんが、マーケティングデータだけで「よし、ここにするか!」って半分勢いで決めてしまいました。

−お話を聞いていると、三宿という場所を選んだことによって、当時持っていたコンセプトにポジティブな影響を及ぼすことがその時点である程度明確に感じられていた様にもとれるのですが、実際にそのコンセプトはさらに昇華されたのでしょうか?

中島 うちのもうひとつのコンセプトとして「1LBK」という造語があるのですが、この言葉で表現したかったのは、「物を0から作っている人達が、まるで自分の家に友人を招待して、やりたいことについて語る」という環境だったので、1LDKをもじって、1LB(BARのB)Kとしました。わざと大型の冷蔵庫を客席のところに置いてるのも、実はそういう演出です。0からものを作り上げている人たちを応援したいという意味で、そういう人たちが憩いになる様な場所を作る、それすなわち、1LBKを作る、という感じでリンクしていきました。表現的にもしっくりくるワードが発生したのは、三宿を選んで、そこでどうお店を作っていくかを考えていたからですし、場所をカッチリ決めたことで色々お店にまつわることがひとまとめになった、つまり昇華したのだと思います。今まだ売れていないアーティストの発表の場としても使って欲しいですし、この「BUZZOFF」という場で、そういう人たちが出会い、そこで仕事が広がったり、若手の人が力を持っている人たちに目付けをしてもらったりということが自然発生的に起こっていくところを、飲食店経営を通して見てみたい、そんな気持ちがまさに具現化した言葉だと思います。

−飲食業界の激戦区三宿で12年以上もお店を続けられているのは、何か秘訣の様なものがあるからなのでしょうか?

中島 とにかく「現場主義」を貫き続けてきたことが、その事実を生み出しているのだと思います。うちのお店は、ただおいしいお酒が飲めるというだけではなく、「朝までおいしいご飯が食べられるよ」という部分にも特色があります。例えばピザは手作りでやれば当然時間もコストにもロスはでるけど品質にこだわるなら絶対手作りしたほうがいい、とか、手間暇かけてでも良いものをお客さまに提供し続けていますし、全てのサービスにおいて「まあいっか」は絶対にナシにしよう、っていうマインドがあります。バルや立ち飲み屋が増えてきて、安く品質もそこそこといった様なファストファッション感覚での飲食店が増えてきていますが、そういったお店では絶対に味わえないサービスと高品質な味をBUZZOFFは提供できているという自負があります。慢心せずに、常に良いものを追求して馬鹿正直にやっていれば、新しく来てくれるお客さまも、前から通ってくれるお客さまも、僕達同様にこのお店を愛してくれるのではないかと信じて経営してきました。12年以上もこうしてこのお店が残っているのは、お互いに愛情を持ち合えた結果なのだと感じています。

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中には、地方の特産品やお酒をお店に持ってきてくれる方もいる。そんなときは当日来てくれたお客さまに無料で提供しているそうだ。こういったことがあるのも、お店とお客が良い関係を保っているからだと言える

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店の一角にはDJブースがある。誕生日パーティなどではDJが回すこともある。プロジェクターも設置してあるため、VJも可能

”失敗や苦悩だらけの1年目を救ってくれたのは幼馴染だった”

−1年目の経営状況などリアルなお話が聞きたいのですが、お店を始めた初期の頃はどの様な感じだったのでしょうか?

中島 大赤字でした(笑。それこそ笑えないレベルで、です。なかなか黒字化できなかった原因としては、マーケティングはしたものの三宿でのコネクションも希薄でしたし、もともとのお客さまも0の状態、さらにはお店がマンションの4Fで路面店じゃないからそもそもお店を見つけるのが難しい、など複数ありました。なので、まずは「こういうお店がここにあるよ」という情報を広める必要があったのですが、僕達にはその術がなかったのです。始めてはみたものの、お客さまが全く来ないという状態が続き、それから数ヶ月はお店を始めるときに僕達が用意した資本金を垂れ流していく日々が続いていました。

−具体的な打開策もなく、窮地に陥ったときどういうアクションにでたのですか?

中島 かたっぱしから友達に連絡しました。「僕のお店がつぶれそうなんだ、助けてくれないか」って(笑。そのヘルプコールに真っ先に応えてくれたのが、当時ポルノグラフィティのスタイリストをやってた僕の幼馴染、北原だったのですが、彼が芸能人やアーティスト、業界関係者達を毎晩の様に連れて来てくれたのです。今、彼は「SENSE」というメンズ雑誌を出してる会社の役員をやっていますが、当時、メンズノンノに僕のお店や僕自身も記事にだしてくれたり、その後も色々な面で協力してくれたのです。月並みな言い方になってしまいますが、彼がいなかったらきっと今の自分はいなかったと思います。もともと僕のやりたいことに共感してくれていたこともあったけれど、僕がヘルプコールを出したことがキッカケで、まるで一緒に「このお店を経営していくスタッフの様に」、BUZZOFFプロジェクトに参画してくれたんですよね。そのおかげで、人が人を呼び以前よりもお客さまが入る様になってきましたが、すぐに赤字から抜け出せたかといえばそうすぐに上手く行き始めたわけではありませんでした。1年目はもうがむしゃらにそれこそ赤字の中、スタッフ皆で貧乏生活しながら耐えたわけですが、2年目の途中でどうにも首がまわらなくなり、親に100万借りたのです。親には、「このお金を使い切ったら辞める」って言っていましたが、内心辞める気なんてサラサラありませんでした(笑。

−その2年目の中盤戦が、転換期となったのですか?

中島 親から100万借りたときには、首がまわらないながらも若干右肩上がりに利益がでてきていたこともあって、1年目と2年目の前半で必死に積み上げてきたものがようやく形になりかけていた実感がありました。だから、諦める気なんてもうとうありませんでしたし、これからが勝負だって思っていました。今も、この転換期を一緒に作ってくれた当時の仲間と幼馴染には本当に感謝しています。マーケティングデータやコネクションは確かに大事ですし、物事を成功させる上では必要なことなのかもしれませんが、僕が身をもって学んだのはそういうことではなく、「こういうことがやりたい!でも、困っているんだ!助けてくれ!」という声を、どれだけ誠実に自分の周りに発信できるかどうかが大事、ということでした。思い返せば、僕達の中だけで「1LBKムーブメント」が巻き起こっていて、その「1LBKムーブメント」がなんなのかを伝える術や環境もなく、お店を出すこと=発信だと思っていた節があったんですよね。でもそれは発信ではなくて、発信基地を作っただけで、そこからどういうことをどんな風に伝えていくのか、誰にそれを伝えるのかをあまり考えていなかった様に思います。つまり、巻き込みをしなかった、ということですよね。売上が右肩上がりになってきたとき、その口コミの連鎖反応の様なものを体感しましたが、あれは僕がこのBUZZOFFという場で来てくれた人達と接する内容そのものが発信材料になっていたから起きた現象だと思いますし、その材料のクオリティは絶対に下げてはならないんだ、と強く感じました。

−1年目、2年目の前半で積み上げてきたこととは、具体的にいうと一体何なのでしょうか?

中島 このお店に来て良かったという気持ちになってもらうためにできることは結構単純なところで、例えば誕生日かもしくは誕生日が近くにきている人へサービスをしたり、来るお客さまには必ず僕が声をかけるとか、名刺をもし貰ったらお礼のメールをする、など、思いつくことは必ずやっていました。つまり、「体験」が「次のアクション」の鍵になっているとすれば、その「体験」のクオリティをサービスで向上させる必要があると考えていたのです。昔はチャージ料金が1,000円のお店がこの辺りに5軒くらいありましたが、今では1軒しかないという事実からも、安く場を提供するというサービス自体はすでに他のお店もやっていることですし、僕のお店ならではのサービスというものをもっとレベルアップさせなければいけない、と思っていました。やはり、そこで基本となるのは「お店でどんな体験をしたのか」というところだと思いますし、また来たいなあってなってくれる様な「体験」を来てくれる人達の心の中に積み重ねることが大切なので、それを毎日工夫をこらして実践していました。また、僕は失敗はチャンスだと思っています。いかにその失敗をフォローできるか、というところがポイントで、簡単なことで言えば、ドリンクひとつ忘れた・間違えたという小さなミスをしたときほど、次出す商品を「大盛りにしました、先ほどはすみませんでした」とあやまって対応するだけで全然印象は変わりますよね。ミスは少ない方が絶対いいけれど、ミスをした場合でもチャンスに変える機転が自らを救うし、それもお客さまにとって良い「体験」として結果的に提供できた、となれば失敗が単なる失敗として終わりません。だからいつでも、何が起きても前向きに収束するためにはどうすればいいかを考えています。

「体験」を通して、0からものづくりをしている人々の背中を押す

−「体験」のクオリティを向上させていくことは、0からものづくりをしている人達の背中を押すこととどの様にリンクしてくるのでしょうか?

中島 うちのお店に来てくれる人達の中には、勿論駆け出しのデザイナーや絵描きさん、物作りをしている職人さんもいるので、飲みがてら自分の作品を持ってきてくれます。それを店内の人目につくような場所に飾っています。BUZZOFFには毎晩色々な業界の人が飲みに来ますので、飾ってある作品にフィットする業界の人が来ると、それが目に止まって、「この絵って誰が書いたの?」っていう具合に聞かれることも多いんです。そこで僕が人と人をつなぐ役割、つまり「○○さんって人が書いた絵ですよ」と紹介をすることで、今まで照らされなかったところに光があたったりする。そういったフィジカルな紹介をすることで、何かしらの化学反応が起きたらいいなと思いますし、もしかしたらその作品を作った人が世に出るチャンスになったり、仕事が来るかもしれませんよね。その作品との出会いが人との出会いというネクストステージの「体験」になる様、僕ができることは何か考えて、背中を押す様にしています。

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お店に持ち寄られた数々の作品群が店内に展示されている

−中島さんの今後の展望を教えてください。

中島 BUZZOFFとは少し色の違った飲食店をやりたいと考えています。「和食」にこだわったお店がやりたいんです。何故和食を選んだのかというと、和食の職人はうちのお店に集まる様なアーティスト気質な人が多いということもあって、今自分がやっていることとリンクする部分がありますし、今までの経験を最大限に生かせるジャンルだと思ったからなのです。今後は飲み屋よりも食べ物屋として店舗展開したいと考えていたので、今までは共感しあえる人同士をつなぎ、「コミュニティ・コネクション」を提供することでお店を続けてきましたが、今度は自分自身が共感できる職人さんたちとたくさん出会いたいと考えています。


 

決して楽な道のりではない、むしろイバラの道を地道にコツコツと歩いてきた12年の間に築き上げてきたコミュニティ・コネクションが、今もなお中島さんの背中を支えている。そして、バーチャルではないリアリティのある出会いを紡いでくれる最高のツール・プレースとして、BUZZOFFは今もなお、三宿で機能し続けているのだ。

「何かやりたいことがある」

「何かやりたいことを見つけたい」

あなたがもしそう考えているのであれば、「0からものづくりをしている人達(表現者)の背中を押す」BAR、BUZZOFFで、未知なる出会いを「体験」してみてはいかがだろうか。

 

三宿の隠れ家ダイニングバー 1LBK BUZZ OFF

スクリーンショット 2015-06-02 13.22.32
milestone Bld, 4F Mishuku setagaya-ku, Tokyo
03-3795-6557
buzzoff@mtj.biglobe.ne.jp
PM8:00〜AM5:00
cover charge 500yen,service charge 10%

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